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三谷龍二

読みもの

僕のおもちゃ箱

 まだ僕の子供が小さかった頃、子供のための生活道具やおもちゃを、いろいろと作っていた。カードを入れ替えると、曲を何通りも鳴らすことができるオルゴール。幼児がぶつぶつ言いながら物語を作って遊ぶ、10種類ぐらいの幼児の手のサイズの小さな動物たち。クリスマスの情景をモチーフにしたオーナメントやアクセサリー。子供椅子。木馬。それから、離乳食期の幼児用ボウルやスプーンなども作った。
 例えば、木馬を作った時のこと。僕はできるだけ丈夫な木馬を作ろうと思った。子供が木馬に乗っているところを、見たことのある人ならお判りだろうが、子供という蛮人は、大人が考えるように、木馬はただ前後に揺らすだけ、という使用方法ではとても終わらない人種だ。しばらく揺らして遊んでいると、いろんな別の遊び方を次々と思いつく。木馬は、前後に大きく揺すると揺り脚の先を梃子にして、少しづつ前に進むことができる。その遊び方を発見したとたん、俄然木馬の扱いが手荒くなる。子供たちが集まって騎馬戦のような遊びが始まる。見ているこちらとしては、いつ壊れないかと、ハラハラしどうしの扱いぶりだ。とにかく、こんな手荒な扱いに耐えるには、まず丈夫に作らなくてはいけない、そう僕は思った。
 ところが、その頃僕の見た玩具店の木馬は、脚の接合部分を木ねじで固定しているものがのほとんどだった。これでは子供たちが遊んでいるうちに、堅い金属ネジが少しずつ木の穴を傷めてしまう。そして終いには木ネジが馬鹿になって壊れてしまうだろう。この部分はどうしても抜きホゾにして、楔止めして....。そんなことを考えながら、図面を引いたのを思い出す。
 良質なおもちゃはものとして、本当に息の長い生命をもっていると思う。独楽、凧、抱き人形。ヨーヨー、ままごと。やじろべいや体操人形なども、その原理を使ったおもちゃが、世界中に形を変えて作り続けられている。長い間作り続けられ、たくさんの人々に愛され続けたおもちゃは、永遠のスタンダードといえる。

 今でこそおもちゃは、店に買いに行くもの、になってしまっているが、ちょっと前までは、おじいさんやお父さんが身近にある材料を使って、子供に作り与えたり、あるいは子供自身で工夫して作ったものだ。それがおもちゃ当たり前の、あり方だったのだろうと思う。
 民芸品に売られている外国のおもちゃなどをみても、とても素朴なつくりのものも多い。 小さく、それがたとえ素朴な作りであったとしても、長い間そのかたちを残してきたおもちゃは、とてもさりげなく、人々の暮らしに寄り添って存在してきた。それは歴史に残る芸術、というものとはちょっと違うかたちだけれど、とても素晴らしいことだと思う。
 そのうち、少しずつ子供が大きくなっていくにしたがい、当然のことだが、おもちゃをあまり欲しがらなくなっていった。そして僕の方も、子供のためのおもちゃを、新しく作ることが少なくなっていった。需要と供給の関係が働いたといえるのだろう。
 でもおもちゃや、おもちゃをめぐる世界への興味は、僕の中でかたちを少し変えながらも続いていった。写真の猫や体操人形も、別段子供のためというのではなく、何となく面白くて仕事の合間に作ったものだ。実用から少し離れることのできるおもちゃの世界は、大人にとっても、気持ちをとても自由な気分にしてくれるので楽しい。
 そしてもうひとつ。僕がおもちゃと肌が合う理由に、その大きさにあると思う。僕はなぜだか、小さいものが好きなのだ。旅行などで(もちろん、荷物にならないということもあるが)小物をよく買って帰る。それに道ばたでも、なにかと小さなものを拾って帰ったりする。もちろんそれらは、たとえ小さくても、ひとつの世界を持っているものに限られる。僕の家のトイレにある棚には、そうした役に立たないものやがらくたが、別に整理もせずに並べてある。いわばその棚の上が、今の僕のおもちゃ箱なのだ。
 梓川の石ころや落ち葉。アンティークの積み木、鋳物の自動車。フランスのスーパーで買った卵の黄色い紙パック。アメリカのクルミの大木に付いていた、グリーンのナンバープレート。海岸に打ち上げられた色ガラスの破片や貝殻、流木。そして、僕の作ったものも、その中に紛れ込んでいる。
 何の脈絡もなく、無意味な繋がりで並べられた小さなものたち。それが不思議に、カラッと晴れわたった青空のように、僕には心地よい。
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