現在、ヒトは毎日膨大な量の情報と向かい合いそれを処理している。狩猟採集時代からヒトの脳の容量は変化していないそう だから、処理できる情報量には限界があるはずだ。そこで、タイムパフォーマンスが強調される。タイパとかコスパとか、あまりうれしい言葉ではないのだけれど・・・。
日常使いの器を商う店を続けながら、時々使えないものを展示したり、紹介してきた。それは、タイパもコスパも関係ないさという、僕なりの寄り道、道草のたのしみだった。
そして、用途性のないものを展示しながら、ふと考えた。「使えるもの」と「使えないもの」って、二項対立的、双極的なものなのだろうかと。
毎日の食卓のためにと買ってきた大皿が キャビネットの上に置かれることで空間を引き締める。それはひとつのオブジェとして機能しているのかもしれない。あるいは、オブジェとして制作された壁掛けも、リビングや書斎の空気をそっと変えてくれる。これは用途性を発揮しているといえないだろうか。西洋の人たちはファイソアートとアプライドアートは違うという。それはそうかもしれないが、その国境線は必要か?僕たちはそこをもっと自由に往還し、自在にたのしんできたのではないだろうか。
三谷さんは今展で、本筋のお仕事である、日々の暮らしを彩る器たちに加えて、楽しい道草の途上でできた、「役に立たないけれど、必要なもの」を展示してくださるという。
「使えるもの」も「使えないもの」も、僕たちは使いつつ眺め、眺めつつ使ってきた。美しいものに囲まれ、好きなものを使って今日一日を過ごす。
ほんとうに必要なものは「情報」ではない。手で触る。目で見る。
さまざまな感覚器官を使って味わってみる。カラダを通過したヨロコビを深く反割する。
処理すべき情報が過多であるがゆえに、僕たちはいつでも「情報」に還元できないなにかを求めている。
茶馬亭キュレーター 広瀬一郎
【About this Exhibition】
木の器を作る仕事の合間に、少し道草をして、これといって用途のないものも時々作ってきました。決められた目的や役割からひととき離れ、別の時間に身を置く。その没入感は心地よく、仕事の合間に訪れるそんな寄り道の時間は、私にとって小さな楽しみでもあり
きっと皆さんも経験があると思います。引っ越しの荷物をまとめている最中に、棚の奥から出てきた古い本を何気なく開き、つい読み耽ってしまったことが。本来向かうべき場所があるにもかかわらず、思いがけず別の世界へと入り込んでしまう。その時のような楽しさが、道草にはあるように思います。
とはいえ、私の「道草」は、糸の切れた雨のように現実を捨てて自由気ままに漂うものではありません。しばらく寄り道をしても、やがてブーメランのように元の場所へ戻ってきます。
ものづくりにもさまざまなあり方がありますが、私は自分のロマンだけを追い求めるよりも、家族や他者、社会との関わりの中で生きることを大切にしてきました。日々の暮らしには面倒なことも多く、いつまでたってもすっきりとは片付きません。それでも私たちは、その終わることのない日常と向き合い、躓き、逡巡しながら生きていくしかないのだと思います。
今回の展覧会の打ち合わせでは、「使えるもの、使えないもの」という話題が出ました。器のように役に立つものだけでなく、その傍らにある、人の手の温もりを宿した「役に立たないもの」も、私たちはどこかで必要としているのではないだろうかと。
情報や効率が優先される時代では、役に立つことや意味のあることばかりを求めていると、息苦しくなることがあります。だから時には、その仕組みから少し外れてみる。見知らぬ路地や空き地を見つけて、しばらく道草をしてみる。
そうした寄り道が、心に風を通し、また歩き出す力を与えてくれる。そんな風に思うのです。
三谷 龍二
- 45Rギャラリー茶馬亭
東京都中央区銀座5-6-15
セイコー銀座五丁目ビル4階