
〜2026年8月30日、明治大学 鞍田ゼミの学生たちが三谷工房を訪問した折の対談記録〜
話者 鞍田崇/三谷龍二/朝倉圭一(質問者一)/明治大学学生Sくん(質問者二)
鞍田:
明治大学の僕のゼミでは、毎夏ものづくりの現場のフィールドワークをしています。今回は飛騨・松本エリアを訪ねることにし、飛騨ではやわい屋の朝倉圭一くんのアドバイスのもと、土地に根ざした活動をされている方々を訪れ、多くの気づきを得てきました。そんな旅の締めくくりとして、ゼミ生、それから朝倉くんも一緒に、三谷さんの工房をお訪ねさせていただいた次第です。
この機会にあらためて三谷さんとお話をしてみたいなと思ったことは、昨日も少しお話ししたんですけど、ここへ来て、海外の方も三谷さんたちがやってこられたことに共感を持って見ておられたり、場合によっては本当にそれと近しいものを作りたいという方もいると思うんです。地域によっても違うと思いますけど、どのあたりに共感を覚えられているのか、何かあれば伺いたいなと思って。
三谷:
最近、鞍田さんからメールをもらって。ポートランドに、二年ぐらい前でしたか、新しいギャラリーができて、そこの人が僕らを知っていて、十月に日本へ来るから会いたい、ということらしいんです。それでホームページを見てみると、すごく生活工芸的なんですよ。
鞍田:
日本にあってもおかしくない。
三谷:
でも、作家も売り手もアメリカ人なんです。そういうことがこれから少しずつ広がっていくのかな、という。大きな広がりではないと思うんだけども。
アメリカのクラフトっていうと、だいたい表現的な、本当にアーティスティックなイメージがこれまであったんですけども、普通の器を作る人が結構作家にも増えてきて、そういう店も出てきた。それは結構面白いなと思ったんですよね。
鞍田:
それで言うと、作家というのは日本においても、もともとはどちらかというと表現というか、使うためというよりは見せるためのもの、みたいなところがあった。そこを大きく舵を切ったのが三谷さんたちの世代だと思うんですけど。まぁ多分、若い人たちはその辺がよくわかっていないところもあると思うので、改めて、どういう時代だったのか、どういう感覚でそこへ行ったのかをお話しいただければと思うんですけど。
三谷:
僕が始めたのが一九八一年かな。工房をね。八〇年代の工芸というと、やっぱり前衛陶芸とか、個性を全面に打ち出したもの、そういうものが中心であり、一方では伝統工芸なども割と超絶技巧であったり、明治のパリ万博のイメージを引き継ぐようなものであったり。ある意味では、西洋的な美術の概念に非常に影響を受けている感じがしたんだよね。
アートになろうとしている、美術館に収めたいと思っている。昔は家の中で使うものが工芸だったと思うんだけど、あの頃の工芸はみんな美術館を目指していたわけですよ。作品を目指したわけだよね。だから大きな作品が多かったし、強い表現が多くて。「俺を見ろ」という感じ。自己顕示がすごく強かったんですよ。それがすごい嫌だったんですよ。それと、なんだか古臭いなという気もしたんですよ。
鞍田:
それは二十代ぐらいの時に?
三谷:
もう、仕事を始める頃だから、三十ぐらいですね。古臭いなと思ったのは、美術の方では「もの派」とか、七〇年代ぐらいから始まっていますから。そういうものと比べると、なんで工芸はいまだにこれをやっているのか、と不思議な感じがしたんだよね。
そういうものを頭に浮かべながら、「それじゃないこと」という――別に反発とかじゃないし、アンチというわけでもないし、喧嘩を売ったわけでもないんですけども、僕は自分の好きなもの、自分が欲しいもの、生活で使えるものを作りたいなというのはやっぱりあったわけです。それが最初、バターケースであったり、スプーンであったりするわけです。それは過剰に表現的な工芸の状況の中では、ちっぽけで取るに足らないイメージのものだったわけですよね。だから、もちろん誰からも相手にされない。でもそれでもいいと思っていたんです。だから、そういう工芸とはまったく違うところから僕たちの仕事は始まっているかな、とは思うんです。
そういうなんか具体的なものが大事で……昨日も少し話をしたんだけども、大きな状況は自分ではよくつかめない。理解もできない、把握もできない。でも、自分の足元で感じる感覚、地に足がついた感覚からものを考えていければ、そこでできることもあるだろうと思ったわけですよね。それがスプーンであったり、バターケースであったりということだったので、大きな状況を変えるとか、そういう意味はまったくなかったんです。ただ自分が、具体的によくわかること、正直なこと、身のほどにあったこと。そういうことでやってきた、ということなんですね。
そういうふうにしてやってきたことが――クラフトフェアもそうなんですけど――少しずつ広がりが出てきた。不思議なぐらい広がりが出てきた、というね。
三谷:
〔クラフトフェアが始まったのは〕木の仕事をして四年目、一九八五年なんですよね。周りにいっぱい木工家がいて、だいたいは独立したばかり、多くは松本民芸家具にいた人なんですよね。民芸家具にいて、あの暗い色の、漆に似せた仕上げが嫌で、木地本来の色を生かしたオイルフィニッシュでやりたいなという人たちが現れてきた。僕がオイルフィニッシュにしたのも、その影響ですよ。そういう人たちが先になっていますね。
鞍田:
その人たちはシェーカーとか。
三谷:
シェーカー、ウィンザーを見ていたと思いますね。ウィンザーが強かったかもしれないね。
鞍田:
そういう人たちと、一つのクラフトフェアという話になっていった、ということですか。
三谷:
そうですね。松本民芸家具に「松本民芸生活館」という社員寮があって、そこで生活しながら、濱田庄司の作ったものとか、古い修道院のテーブルとか、良きものを日々使いながら、民芸を理解しなきゃいけない、ものを知らなきゃいけない、それらを日々手に触れて、それから工房に行って働く、という繰り返しをやっていく。作ること、使うことを両方大切にする。そういう思想を池田三四郎が持っていたみたいで、それでそういう場所を作ったわけです。その寮に共に暮らした、十人ぐらいの人が、毎朝五時に起きて家具を拭き掃除する。そこへ池田三四郎がやって来て、みんなの前でいろいろ喋ったりして、それから出社する。そういう生活をずっとしていたらしいんです。
その初代の寮長という人が、民芸家具を辞めて、イギリスのハイ・ウィカムという所に、ウィンザーチェアの発祥の地なんですけど、そこに修行に行ったんですよ。イギリスのウィンザーチェアを彼は学んでから帰ってきて独立したんです。寮だから、上下の序列がある程度あって、先輩後輩の繋がりがあった。それがあったから、クラフトフェアはできたと思うんですよ。先輩が「お前ら、集まれ」と言ったから集まった。
鞍田:
あ、それが母体というか、実際の動きになったんですね。
三谷:
そう、それがなかったら、作家同士が一緒に何かやるというのは、難しかったのかもしれない。
鞍田:
元々一匹狼でしたから。
三谷:
めんどくさいってのが普通だったから。だから松本でできたのは、それが大きかったと思います。
鞍田:
軸にそれがあって、松本民芸家具からのスピンアウトというか、それが種まきになって、流れになって、新しい時代の中で彼らは別の方向を作った。そこに今の三谷さんのような、個人でやっている方々が一緒に。
三谷:
第一回が八五年で、その前年の八四年に、市内に「グレイン・ノート」というお店――今でもありますけども――を四人の木工家で始めたんです。そのメンバーの一人が僕だったんです。グレイン・ノートをやって、その次の年がクラフトフェアだから、開店と同時ぐらいに「やろうか」という話になっていって。
鞍田:
グレイン・ノートの、あとの三人はどなたなんですか。
三谷:
横山浩司君ってわかりますか。中村(好文)さんの家具をずっとやっている、螺旋階段の手すりとか。昨日いかれた遊朴館の手すりをやったのは横山浩司なんですけど、本当に名人ですよね。松本の……大町という近いところですけども。それから指田哲生がいて、それが今もグレイン・ノートをずっとやってますけど、あとは羽柴完がいて、彼が一番感覚的だったかな。みんな木の仕事。四人の木工家が集まってグレイン・ノートっていう。〈木目の詩〉みたいな感じです。
鞍田:
そもそも木に向かうというのは、松本に来られたことが大きいんですかね。
三谷:
そうですね。こっちへ来る前に福井に寄って、偶然画材店に入って、そこで一本の彫刻刀を買ったというのがきっかけなんですけど。
鞍田:
そのエピソードは初めて聞きました。福井でたまたま一本の彫刻刀を買われたのがはじまりなんですね。
三谷:
何も考えないで買ったんですよね。それで、知ってる人は知ってる話だけど……土工として中央道の工事現場に僕は行ったんですよ。工事現場は茅野にあったんですが、飯場に入って、工事現場に落ちてる木端で、人体を彫ったりとか。それが最初なんですよね。まあ暇つぶしですよね。将来これで食べていこうとは思っていなかった。
それで松本に来た時に、なんとなく木工家が何人かいて、職業訓練校があるということを知って、見学に行ったりして。それも別に、木工家になろうという気持ちじゃなくて、なんとなく――ロビンソン・クルーソーが好きだったんで。最初、ロビンソンは椅子とテーブルを作ったのかな、孤島に入って。「地べたから離れる。それが人間的な暮らしの基本だ」というふうに書いてあったような気がするんですけど。それで、別に職業としてではなくても、自分の生活を作るための技術として、木工を学んでもいいかな、という、そんな程度だったんですよ。
鞍田:
それが二十代の終わりぐらい。
三谷:
二十六ぐらい……いや、違うかな、二十八ぐらいか。
三谷:
小さいスプーンとか、広がることはあまり考えなくてやった仕事が、ポートランドまで広がったというのは、驚きといえば驚きですよね。この伝わり方……ちょっと分析してほしいんですよ。普通だと、大きな声を上げて伝えていこうとするわけじゃないですか。でも、そういう伝え方じゃなくて、自分はただ小さいことをやっているだけなんですよね。
鞍田:
でも、本来の工芸はそういうものですよね。きっと、別に制度を作るとか、そういうことじゃなくて、先ほどの「地に足のついてる」じゃないですけど、確実にこれをいいものにしたいという、目の前の一個一個への関わり方だと思うので。人によっては、そういうものに「じゃあ社会が変わるのか」とすぐに答えを求めがちだけど、そうじゃないというところなのかなという気はするんですよね。その確かさが積み重なっていった先が、今のポートランドの話かもしれないですけど。
三谷:
今お配りした本『うつわのそれから』は、糸電話が表紙になってるでしょう。糸電話って誰かに「伝わる」ということの象徴なんですよね。伝わり方とか、表現とか、ものを作ることの伝え方というのは、どういうふうに解釈していいか難しいんですけども。僕はこう、「内に向かう表現」という言い方をするんです。外に向かうんじゃなくて、内に向かう表現。自分自身の内側に深く沈んでいくと、それがどこかで遠くの誰かに伝わっていくという。一人二人と少ないかもしれないけど、伝わっていくというね。小説なんかにもそういうところがあるじゃないですか。「この小説は、なんで私のことをこんなによくわかるんだろう」みたいな孤独な魂が、暗闇の中で交信するような。そういう伝わり方ってあると思うんですよね。
鞍田:
人ごとじゃない、みたいな。
三谷:
そういう人が五人とかいれば、伝わったことになると思うんですよ。それが長い時間をかけて、遠く東アジアに広がって、今アメリカの誰かに伝わり、少しずつ広がっているとすれば、面白いことだなとは思うんですよ。
鞍田:
あんまり簡単に理由付けするのもどうか、という気がしますけど、そもそもが一個一個の「確かさ」から始まっている動きがあって。例えば AI が出てきた今の状況もそうですけど、そういう手応えとか確かさというものが、地域を問わず、なかなか得られない、なくても生きていけてしまう、という状況はあって。それに対して「それでいいのかな」という違和感は、おのずと広がる状況があるのかなという気がするんですけどね。
でも、それに気がつくかどうか、そのきっかけって結構大事なのかなと思うんです。なまじ生きていけてしまうものだから、そのままスルーしていっても生きていけてしまうけれど。その引っかかりですよね。作るものも一個の小さなものだけど、気がつく機会も一気にではなくて、ささやかな機会を誰かが与えてくれるか、自分で見つけるか、ということなのかなという気がしてはいるんですけど。
僕がこうやってフィールドワークというか、調査旅行みたいなことをしたいなと思うのも、東京で言葉で話をしていても――もちろんそれはそれで大事なメッセージになるとは思うんだけど――それでは伝わりきらないものがあるからで。受け止め方はそれぞれだと思うんですよ。今日この時間、この空間で過ごしていて、どの言葉が心に残るかは、きっと人によって様々だと思うけど、でも、これを明治大学の教室でやっているのと、この漆工房で聞いているのとでは、全然違うと思うんです。漆の香りを感じながら。
そういう身体的な感覚の中で、何が自分に残ったのかを確かめてもらったらいいのかなと思って。まさに糸電話じゃないけど、本当にか細いもので伝わっている。そこにすごく大事なものがあるんだろうなとは思うんですよね。
逆に、でも、そういうものを僕自身も三谷さんとの出会いを通じて、その大事さを教えてもらった。本当に。
三谷:
一番最初は、「じゃあ、ランチでも行く」という打ち合わせで。
鞍田:
そう、そのノリがすごくありがたかった。「打ち合わせしましょう」というのが、言葉と言葉じゃなくて、ご飯を食べながら、みたいな。そういうところの伝え方だったのかな、という感じもありますね。
三谷:
最初、地球研〔総合地球環境学研究所〕にいらした時に連絡があったんですけども。「地球研」ってなんだか大きな感じがするじゃないですか。それと僕とがどこで関われるんだろうと、不思議な気持ちだったんですよね。
鞍田:
十五年ぐらい前ですけどね。そこから始まって。
ポートランドの件はまだこれからなんだけども、それがどういう状況で今つながっていっているのかということは、僕もまだまだ言語化しきれないところがあるんです。でも、政治的に大きく物事を変えることだけではない、ということに対して、確実にこれを、一つの器をいいものにしていくということが、場合によっては誰かのいい社会につながるかもしれない、という実感は、ささやかながらも広がっているのかなという気がするんですよね。そのためには、ブームとかではなくて、着実に生活をしている人たちの近くにいることが大事だと思うし、ポートランドってそういう街なのかなという気はしますよね。
では、よければ皆さんの方からも、もし聞きたいことがあれば遠慮なく質問ください。
朝倉:
ありがとうございます。奇しくも僕は一九八四年生まれで、クラフトフェアとほぼ同い年なんだなと改めて思いました。それは置いといて。以前からお聞きしたいと思っていたのですが、三谷さんは器も作られますし、玩具も作られますし、家具も作られますけども、「言葉」もものすごくたくさん、しかも大きな本ではなくて、小さな本を本当にたくさん発刊されていますよね。
いろんな方のお宅にお邪魔した際に、本棚に入っている三谷さんの本を見て「あ、これだ」と見つける。その中には鞍田先生と書かれた本ももちろんありました。それらの本が、大体どのお宅でもボロボロになっていて、仕舞われているというよりは、折に触れて出して読まれてきたことが伝わるんです。料理のレシピ本と並べて置いてあったりするのを見て、それは、実はすごく特殊なことだという気がしています。三谷さんが作られているものともすごく近い、親密さのようなものを感じます。三谷さんの中で、ものづくりと、ものを書く、本を作るということが、どのような関係を持っているのかを、お聞きしたいです。
三谷:
文字を書こうと思ったのは、やっぱりクラフトフェアが大きかったんですよね。クラフトフェアの機関紙のようなものを担当していて……機関紙をやろうというのは自分で言い出したんだけど。クラフトフェアって、青空の下で開催されるから明るいイメージがあるんですけども、僕の作る DM は、ずっとさびしいと言われていた。DM はいつも一月下旬に(五月に向けて)作るのですが、松本が一番寒い時に、一人で「あがたの森」へ行って、自分で作ったものを置いて、写真に撮るんです。必ず室内で、それは作り手の日常の時間であって、たった一人、工房の中で考えていることに、どこか触れられたらいいと思ったわけです。クラフトフェアのイメージというと青空のもとという感じですけども、DM はすごく暗いイメージ、孤独なイメージなんですよ。だから僕は、その対比がすごく大事だと思っていて。
ものづくりというのは、個人の孤独な作業だと思うんですよね。そういうものが、青空のクラフトフェアと一緒に存在していくことが大事だと思っていたので、言葉も大事かと思い、機関紙を作った方がいいと思ったわけです。冊子では毎回五人の作家を選んで、言葉を書いてもらったりしたんですよね。みんなに書いてくれと言うと、「小学校以来、書いたことがない」と嫌がられるんですけども、なんとか書いてもらうと、やっぱり面白いんですよね、書いたものは。実があるというか。うまくはないんだけど、面白いんですよ。その五人の書いたものを集めた冊子の編集後記みたいなものを自分が書く、という感じでものを書き始めた。
恐らく、彼らが考えていることと、自分が考えていることが合わさる場所を探そうとしたんですね。編集ということを通じて、自分たちにとって大切な言葉を見つけたいと思った。一人で考えても埒が明かないところがあって、現実とどこでつながっているかもわからないわけですよ。ただ単に自分がモヤモヤしているだけなので、そのモヤモヤをもう少しクリアにしたいという気持ちがあったんですよね。そのために本を編集して、五人の作家に書いてもらって、それを読んで後記を書く、という作業を十年ぐらい続けたんですよね。それが自分のものを書くことのベースになったと思うんです。
社会には大きな問題がたくさんありますけれど、その社会と、自分のモヤモヤしているものとがどこでつながるのかということを、どこかで探していた。鞍田さんにも出てもらった瀬戶内生活工芸祭の時も、「生活工芸の“地図”を広げて」というタイトルをつけさせてもらいましたが、自分の居場所がわからないというか。無我夢中でやっていることも大事だと思うんだけども、でも、自分の居場所をどこかで知る必要がある。地図の中で自分はここにいるということがわかれば、少し進む方向が見えてくるんじゃないか、ということで、自分の居場所を見つけるためにも言葉が必要かな、と。
それは、ものを作ることとはまったく違う世界ですよ。ものを作るのは、本当に自分の考えだけでやっていけばいいので、それでいい。無我夢中でやればいいと思うし、そのことも大事なことだと思うんですよ。でも、無我夢中でやることと、それをちょっと客観的に、もう一つの目で見るという意味で、言葉が必要かな、というふうに。
鞍田:
いや、面白いですね。ちょっと脱線しますけど、僕は阪神大震災の時に、いわゆる傾聴ボランティアをしたんです。「心のケア」というのは、震災という精神的ショックを受けた方々が PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患い精神的に不安定になっているので、お話を聞くということなんですけど。なぜお話を聞く必要があるかというと、まさに、自分がどこにいるのかを確かめるためなんですよね。被災された方は当然、大きな精神的ダメージを受けているから、ひたすら考えているんですよ。それは「モノローグ」で、全然確かめにならない。そのためには、「誰かが聞いている」という状況がすごく大事で、言葉にして、聞く人がいる。独り語りじゃなくて。そうするとおのずと、今の自分の置かれている状況を客観化できて、すぐにではないけれど、心の安定を取り戻していく、ということだったんです。
今の話を聞きながら、ある意味、工芸の仕事においても――別に精神的なダメージという話ではないんですが――言葉が持っている役割は、まさしくそういうことだったのかなと。つまり、特に三谷さんたちはまず一人で孤独にやるということもあったから、ものづくりのいとなみ自体はひたすらモノローグの世界だと思うんですよね。こちらで確実に一人でやっている世界の濃度が強く、濃くある分、時々そうやって言葉にしようっていう気持ちがわいたり、クラフトフェアで他の人たちとお互いを確かめ合おうって機会がおのずと立ち上がったり――もしかしたらそれをやらないと当のものづくりが回らないぐらいの要請が働いていたという意味での言葉の世界だったのかもしれないな。そんなふうに、今の話を聞きながら思ったりもしました。
例えばアートの人たちも語ると思うんだけど、それとは異質なのかもしれない。彼らにとっては言葉もまた表現であって、発信するものなんですけど、工芸の言葉はそうじゃないんじゃないかな、と今聞きながら思ったんです。ひたすら一人の時間、あるいは一人の生活、それはそれで一番確かな世界としてあるんだけど、そこだけだったら、多分すごく堂々巡りになっちゃうと思うんですよね。それが時として、言葉を生み出すのかもしれないですね。
三谷:
クラフトフェアというのは、そういう一面を、一時期「心の虫干しフェア」とか言っていたんです。年に一回ぐらい、ちょっと湿った心を干そうかと。陽の光の中に出て、人と会って。
鞍田:
そんなにジメジメしていたんですか(笑)。
三谷:
そうそう。普段はね(笑)。
鞍田:
でも、それがなんだかやっぱり、三谷さんの作っているもので一番納得できるところかもしれない。人って別に常に陽キャなわけじゃないし、元気出そうとしてもムリ、元気じゃないよ、という時もあるから。そういう時に着実に寄り添ってくれるものが、生活に寄り添うものでもあると思うし。強い時ばかりではないので。その虫干しは、三谷さんが言い出したんですか。
三谷:
「虫干し」と言い出したのは僕じゃなくて、違う人が言い出したんです。納得したんですよ、そうだなと思って。〔ものを作ることも〕最初に、誰かにつながる、どこかにつながるということが一番最初のところにあるから。そういう気持ちがあるんですよね。やっぱりつながりたいんだと思うんですよ。それによって自分が何か少し手応えを、ここに生きているんだということがわかる、という感じがするんだと思うんですけど。
鞍田:
僕自身は逆に、ものを作らない、普段から言葉の人間なんですけど。先ほどの地球研の時に三谷さんに声をかけたのも、そういう手応えのある言葉を探していたからだと思うんですよね。わかったような言葉は世の中に溢れているし、ただちに結論っぽい答えを出してくれるような話もあるけど、そういうものが全然ストーンとこないんですよね。簡単に結論を出さなくてよくて、肌触りのある言葉というか、そういうものが大事なんじゃないかな、と。そういう人が三谷さんを求めているし、ものを作っている人もそうだけど、そうじゃない人にとっても、その言葉が必要なんだろうなと思いますね。
ともかくも、ちっちゃい本を作ったり、たえず言葉をつむぎ続けている人でもあるもんね。朝倉君自身が。
朝倉:
鞍田先生は哲学や、言葉の世界の方で、ものは作らないけれど、関係を作られています。僕は、配り手でものを扱う人間です。先ほどの話にあったように、作っている人が、自分の作っているものの確かさを強く喧伝するために言葉を用いる、という姿はよく見かけるんです。いかに自分のものが優れているか、独自性があるかを、材料や技法の特殊さや、歴史性や伝統性で語るという文章は散見されます。これまで少なくない工芸家の本を読んできましたし、特に日本の本に関しては多く読んできました。
その中で、三谷さんの言葉は最も異質で、最も僕自身の感じていることと距離が近い感じがしてます。感覚的な話になってしまうのですが、近所で田んぼを作っているおじさんと立ち話をしている感覚なんです。すごい人なんだろうけど「おじさん」だと感じて、親しみを感じている。それは本当に奇跡的な距離感で、意図していないとすぐに「すごい人」になってしまう。
でも三谷さんは終始変わらず、ずっとこう、今日のお話も、先ほどいただいた本でもそうですけど、「小さな匙が、なんでポートランドに行くんだろうね?」という発想で来られるじゃないですか。
僕らからしたら三谷さんは、スーパースターで。飛騨で木工と近しい世界で生きている人間からすれば、三谷さんはすごい人だ、というのが先入観としてある。そして、「自分はすごいんだよ」「君たちも僕みたいになりなさい」と、そのように語る人もいる中で、三谷さんは、「なんでだろうね?」と、不思議がっておられる。三谷さんは、ご自身の生活のことを、写真であったり、本を通して見せてくださっているのに、ご本人はその確かな生活を押しつけることなく、楽しげに、不思議そうにされている。
これは印象なんですけど、今、「作家を目指してます」みたいな若い子たちが、「生活をちゃんとしないと」というか、素敵な家で仲間と仲良く、大きなテーブルでご飯を食べています、みたいな様子を切り抜かれて、それにちょっと疲れ出していると思います。三谷さんは孤独というか、一人で籠もってやっているから、虫干しがたまに必要だと言われた。現在の作家は、常にイベントに顔を出して、自分の展示会があって、メディアが取材に来て、芸能人が来て、ライターが来て、料理研究家が来て、というのがむしろ日常化している中で、三谷さんの振る舞いには、とても穏やかなところが見える。
でも、それはきっと、「僕は取材を受けません、穏やかに暮らすんです」と言ってしまったら、姿勢も強い言葉になってしまいます。三谷さんの、なんといいますか絶妙な距離感といいますか。その感じにとても惹かれています。
鞍田:
人が好きなのか嫌いなのか、よくわからない(笑)。そういう感じあるよね。
朝倉:
飼われていない鳥、山鳥みたいなもので、すごく食べに来ている割に、近づいたら逃げるし。でも「いるな」みたいな。山の向こうに。
三谷:
警戒心の強い犬みたいだね(笑)。ツンデレなんですよね(笑)。
鞍田:
それにしても「田んぼのおじさん」かあ。朝倉くんはうまいことを言うよね。でも、それが日常にあるからだよね、きっとね。そういう人たちといるから。
三谷さんがやっていることは民藝と――もちろんご本人はそんなふうに認識していないと思うけど――朝倉君は民藝というものを支えにしている。その民藝的なるものの一つに、田んぼのおじさんのようなもの、そういうものを背負ってとか引き継いでというのではないけれど、そういうものが脈々と実はあった、そういうところに位置しているものでもあったりすると思うんですよね、三谷さんのやっていることはね。
三谷:
そういう、田んぼのおじさんみたいな暮らしが生活で、「生活工芸」というと、センスの良い生活という風に誤解を招きやすいところもある。でもそうじゃなくて、田んぼのおじさん的生活を、ちゃんと考えていかないといけないんですよね。
朝倉:
僕は、最近「生活」という言葉を避けて、「営み」という風に言っています。自分は周囲と生活を営んでいて、誰かと関係している、ということを大切にしたいです。いたずらに、昔のものがすごいとか、民藝が大事だとかいうのではなくて、もっとナチュラルに、営みだから、大変なこともあれば楽しいこともある。四季が巡るように、寒く孤独な時もある。そういうことをもう少し実感として受け止めたんです。生活はどこでもできるし、一人でできてしまう。それは田舎で営みを続けている人間としての実感です。その上で、閉じた生活より、開かれた営みの中に、楽しみを生み出せるのか、みたいなところに関心があります。
鞍田:
それでね。昨日も話してたんだけど、「営み」という言葉を調べたら、「忙しくて暇がない」ということらしいんです。「いとまなし」。
三谷:
それじゃ道草できないね(笑)。
朝倉:
豊かな生活の中のちょっとしたもの、それも、道草ではない感じがします。やっぱり労働的な…それこそ道路を作られている時にふと木を削るのが道草だと思うんです。休みを取って松本に来てクラフトをやりたいな、というのは余暇であって、道草ではないというか…それ自体が目的をもった行動になっている。道草は、本当に暇がないぐらい忙しい中に、生まれるものなのかと思います。今だとそんな時にスマホを触ったりしてしまうことが多いと思うんですが、そうではなくて、詩を書く人もいれば、写真を撮る人もいる。それはすごい道草的で、そういう切実さというか、確かさのようなものは、ふと振り返った時に、自分にこんな感覚があったのかと驚いたりする。暇つぶしと道草は、やはり違うものだと思います。
明治大学学生 S:
すみません、学生なんですけども。昨晩ご飯をご一緒させていただいた時に「抽象」ということが話題に出て、それについて質問があって。建築を勉強していて結構思っていたことの一つに、元気な時はすごくかっこいい抽象みたいなものを受け入れられるんですけど、体調がだんだん弱ってきたりとか、今日は頭が痛いなとか、そういうふうになってくると、だんだんその抽象が辛くなってくる、そういう時がある。
家も多分同じようなもので、いい時はいいんですけど、体調が良くなくなったりする時に、急に疎遠になっていくというか、家がよそよそしくなっていくような感覚があるなというふうに思って。でも、ある特定の感情に合わせて何かを作るとなってしまうと、やっぱりカバーしきれない範囲が出てきてしまって、そうなるとやっぱり、ある種抽象的な幅を持ったものとして、どういう心身状態においても受け入れやすいようなものを作ることが大事なのかな、それが「抽象」という言葉で言い表せることの一つなのかな、と昨晩考えていたんですけど。
お聞きしたいのが、制作をされる時に、使う人の心身状態とか、あるいはどのくらいの人数でその器を一緒に使っているとか、そういう使われるイメージのようなものがもしあれば、教えていただきたいと思うんですけど。
三谷:
それは、作家の作り出す作品的な抽象のことですね。建築家の「作品」には、疲れるから住みたくないとは、よく言われることですね。建築家はどうしても自分の仕事にしてしまうということがあるので。その人たちは抽象的な形態とか美しさを考えていると思うんですけども、やっぱり住む人となると違ってきて、体調が悪い時に、作品の意図的な部分が、なんとなく鬱陶しくなる時があるんですよね。そういうものじゃない方が、僕たちはいい。僕たちが「普通」という言い方をするのは、そういうことですよね。「普通」というものが大切にしていることは、そんな風に体調が悪い時に気になるようなものはやめておこう、ということだと思うんです。
ものに関しても同じだと思うんですよ。「いい仕事をしたぞ」と見せびらかすようなものを、できるだけ作らない方がいいということ。それが「器が半分、料理が半分」という言い方につながるんですけど、半分ぐらいでいいんだ、という。実用を主とした器でも、あるとき、ボウルが置いてあると、なんだかすっと綺麗だな、と思う時があるんですよね。そういう美しさが欲しいなと思っていて。それは自分で発見する美しさになるんですよね。それは、押しつけてくるような美しさではなくて、胸の内にすっと入ってくるような、そういうものだったらいいなと。一回隠しておくんだけど、ある時に誰かが発見するみたいな。そういう形のことは、一応考えた方がいいかな。